対談/vol.17
しょくスポ対談vol.17 中 村 恭 平 さん今回のゲストはFリーグ 府中アスレティックFCの監督 中村恭平さんです。
フットサルとの歩み
続けていました。 そして20歳の時に、国で学校開放事業(市民、卒業生に学校の施設を貸してくれるという制度)が行われる事になったんです。 当時は体育館でボールを蹴る事が一般的でなく随分反対されましたが、当時の校長先生に交渉してようやくフットサルができる体育館を借りられる事になったんです!今考えれば、これがフットサルを真剣にやっていく基礎になりましたね。OBの子達やみんなで集まれる場所ができたのが、今に繋がっていると思います。このメンバーの中には、現在クラブを一緒に運営している千葉理事長もいたんですよ。 数年後、サッカー経験がないけど身長185cmもある義兄をGKに巻きこんで、中村兄弟フットサルチーム 「踊るファミリーズ」を作りました(笑)。 -―中村監督は何人兄弟なんですか?
5人兄弟です。―5人!?何番目なんですか?
僕は3番目の真ん中です。兄・姉がいて、僕そして下に弟が2人ですね。男は全員サッカーをやっていました。当時はフットサルの大会なんてなかったので、自分達で大会を作ったり、府中市の脈略と続いている大会にみんなで参加したりして活動していましたね。 当時は「ミニサッカー」、「サロンフットボール」など国によって呼び方が違ったんですよ。 そして、1994年に世界的にもフットサルという言葉が統一されたんです。 日本でもサッカー協会が中心となってフットサルの全日本選手権(今のプーマカップ)を作ろうという動きがありました。じゃあ「踊るファミリー」のメンバーを中心にチームを組んで全国大会に出てみようという目標ができました。 そして第1回大会では東京都大会でなんと優勝したんです! ―え~!すごいですね!その当時は、都大会の次が全国大会ですか? 都大会の次が関東大会でそれに優勝すると全国大会と続いていました。第1回の全国大会は本大会まで進みましたが、予選で負けてしまったのですが、第2回全国大会はさらになんと 優勝しちゃったんです。 まだどのチームもフットサルのやり方やボールの扱い方を全然知らなくて、ミニサッカーを体育館でやっているという感じでしたが、我々は当時独特なプレースタイルで勝っていきました。 実は、府中が強かったのは、ブラジルのフットサルを真似していたからです。府中市内にある東芝やNECに 勤めている日系ブラジル人3世4世のチームと戦うことによりフットサル特有のプレースタイルや技術が必要なことを知りました。本当に、サッカーが上手な若いチームも、日系ブラジル人のオジサンチームにすら勝てないんですよ。 それを見てどうしたら勝てるのか、選手兼コーチとしてフットサルをやり、学び、上手くなっていきましたね。 ―ところで、府中アスレティックFCとの出会いはどのような形で?
1988年に学校開放をきっかけに府中では体育館でフットサルが盛んにおこなわれるようになりました。その結果、フットサルで日本一を目指す良い選手が府中だけでなく地方からもどんどん集まってきました。そのため、当時のフットサルの日本代表選手で選抜されるのは15人のうち半分が府中でフットサルをやっていた選手という状況が生まれ『フットサルの街 府中』と言われるようになっていきました。 我々の運営している小学校の体育館にも毎週いろいろな選手が、集まってきていたんですが、良い選手を一つにして強いチームを作りたいと、仲間と夢を語っていたことが大きく影響しています。 そこで夢を共有できた仲間たちで「府中アスレティックFC」を創設しました。 でも実は、その頃はJリーグが発展してきた頃だったので、我々の夢は府中にJリーグのチームを作ろうという話だったんです。ただ、府中市の学校開放のおかげでフットサルを行う環境が整っていたため、フットサルでも日本一を目指すことになり今のクラブが出来ています。 僕自身は、クラブ設立の2000年にプレイヤーは卒業して「府中アスレティック FC」の初代監督として指導者の道に進むことになりました。 ―11年前に指導者になられたということですが、一時期会社経営に携わり、府中アスレの監督は
そうですね。2000~2007年まで府中アスレの監督をしたのですが、クラブの運営のために少しでも自分の時間を使えるようにしたいというモチベーションで、会社を作り経営者になることにしました。もちろんその間は、全力で会社の経営を担ってきたのですが、会社は急速に成長すると同時に、アスレがトップリーグやってらっしゃらなかったと伺いました。それがなぜ、会社をやめて再び、府中アスレの監督に戻られたのでしょうか? (Fリーグ2009)に加入することになり状況が変わってしまいました。 到底二足のわらじを履くような状況ではなくなってしまったのです。 当時府中アスレにはイタリア人監督がいたんですが、成績不振でシーズン中に突然辞めてしまい、アスレの中で GM的な活動を継続していた僕が2010年1月に正式に監督として再び就任することになったんです。 その後、半年くらいは仕事をして終わったら練習、練習が終わるとまた仕事に戻ってという生活でしたが、どちらも大きな責任がある仕事なのでこれは本当にきつかったです。 そこで、5月に会社の経営は信頼のおける共同経営者に任せることにして、府中アスレの監督に専念する形になりました。 ―みんなの信頼があり、監督として府中アスレに戻ってこられたのですね。
ひとつは、クラブ全体の発展のためにGMとしてスポンサー集めなどをしています。それから監督として、クラブの夢の中心となるフットサルトップチームの強化をしています。そのために必要な下部組織であるサテライトやユースをでは今現在のお仕事はどういうものですか? 作り、裾野を広げてくモデルも実践しています。 また、もうひとつこれはクラブでの仕事では無いのですが、サッカー協会のフットサル委員会でフットサルの普及活動も行っています。 ―すごいですね、フットサル委員会ではどのような事をなさっているんですか?
例えば、日本にはなかったフットサルの指導者ライセンスを作ったりしてきました。FC級といってサッカーのC級ライセンス保有者に、フットサルの指導方法を教えるんです。最初は日本にはインストラクターが誰もいなかったので、これを僕がやることになって大変でしたよ!いわゆる自作自演です(笑)。僕自身が最初はインストラクターになり生徒に教えて資格を渡す、その中から熱意のある方にインストラクターをやってもらいながら徐々に広めてきました。 辛い事も嬉しい事も府中アスレティックFCの選手と共に―活動の幅の広さ、フットワークの軽さといい、本当にすごいですね!このようなご経歴の中で一番嬉しかった事、辛かった事はなんですか?
一番辛かった事は、府中アスレがトップリーグであるFリーグ開幕の時に加入できなかったことですね。
いいチームができていましたが、Fリーグに入れなくなったことでトップリーグで活躍できる素質のある選手がバラバラに引き抜かれ、18人いた選手のうち14人がクラブを離れチームが引き裂かれる事に なりました。 その時は本当に辛かったですね。自分がやってきて自分が作ったチームだっただけにあたり所がありませんでした。ただ、トップリーグから落ちてしまった中でも府中アスレに残ってくれた選手が4人がいました。 僕が彼らにできることは、彼らをFリーグのピッチに立たせてあげることしかないと思っていましたし、選手 だけじゃなくFリーグに入るために動いてくれたクラブの人達に対しても府中アスレがFリーグで活躍することが恩返しだと思っていました。 それから2年後、Fリーグ加入の再申請をしました。他のチームも多くあった中、府中アスレとエスポラーダ北海道が2009年から参入し10チームとなりました。 その時、僕はGMをやっていて監督ではなかったんですけど、アスレに残った選手達に、もう1回チャンスをあげられたのが本当に嬉しかった。だから、府中アスレティックFCが「Fリーグ 2009」の開幕戦に登場した時が一番嬉しかったときですかね。 府中アスレ躍進の3つの鍵
―選手の補強をされて、選手の力を引き出す事が上手にできないと試合がまわらないと思うのですが、
全員同じ個性ではないですので、各自の個性をちゃんと見極めることですね。そのあたりの指導法・練習法・意識されている事はございますか? 例えば選手の個性って、三角の者もいれば丸いのも、四角いのもいる、そして星型のような珍しいというか 面倒くさい選手もいる(笑)。 勝負の世界、ビジネスの世界でも、成果を出していく集団というは山が高ければ高いほどレベルが高く いいチームというイメージが僕にはあります。 ところが積み木は三角形の上に丸を置くと転がってしまう、そこで横に四角を置かないと安定しない。でも三角と 四角を置くと今度は隙間があいてしまう、でもなんとか山を積み上げる。スポーツの世界では山の積み上げ合戦を して、少しでも高く安定する組織を作るようにするのが大切だと思います。 そして、出来れば山の一番上には星を置くように意識していますね。チームにはスターが必要ですが、それを支えてくれる様々な個性も必要なんです。 そこで、一番大事なことは、それぞれ選手の個性が、三角形なのか四角なのか丸なのか見極めなくてはいけないのです。時には個性が強すぎて納まらなくて飛び出してしまうピースもあります。でもそれが飛び出しても、同じ高さの山を他のピースで作れるならば、むしろ強い組織にできるわけです。つまりそのピースは、組織には必要なくチームから出したほうがひょっとすると土台が落ち着くんじゃないかというわけです。 その見極めですね。 ―なるほど、一人ひとりの個性を見極めて組み合わせることが大切なんですね。監督は、個性の良い所を伸ばす、悪い所を変えさせるどちらに力を入れていますか?
圧倒的に前者ですね。ダメな所・悪い所はみんなあるから、出来るやつが補ってくれないかな?と思っています。 会社でも稼げる社員と稼げる社員を支える人がいました。二人は全然違う性格で仲良くなっかったりしますが、そのセットでプロジェクトを任せるといい成果をだしていたりするんですよね。 また、スポーツの中でも性格のアグレッシブな選手とサポートのうまい選手を上手に組み合わせることが大事。 すると選手ひとりひとり、社員ひとりひとりが気持ちよく仕事するはずなんですよ。特に自分の存在意義が組織の中にあるかないかが、モチベーションを保つうえで大事な要素だと思います。 とがった部分は活かしてあげたいと思いますね。組み合わせによって、組織として高い山が作れると思いますから。 ―その通りですね。私も参考にさせて頂きます。
心技体を揃える
当時、いろんな方に「誰かスポーツ栄養に詳しい知り合いの方はいませんか?」という話しをしていたんです。そこで知人に紹介してもらったのが、こばたさんだったんです。 ―そのような経緯でお声をかけていただいたんですね。ありがとうございます。
実は、知人に紹介されたものの、僕の管理栄養士のイメージは、パワーポイントを使って選手が半分眠くなるような講義をするだろうと思ってたんです。実際に栄養サポートをしてから府中アスレの選手に変化はありましたか? それが“あんまん”“肉まん”から始まったじゃないですか!(笑) 練習終わりで疲れている選手達が目を輝かせたんです!あれには本当に驚きました。 もし僕自身が栄養の事を勉強して伝えようとしたら、多くの文献の中からピックアップした情報を“こうやれ” “ああやれ”と指導してしまったと思います。興味・関心を持たせ、次に自分自身ができる範囲を伝えていくのがプロなんだと感心しました。 栄養サポートを加えた事で、選手たちにクラブが真剣に心技体を揃えようとしてるのが伝わったと思います。 お陰で自己管理の大切さを伝えられるきっかけになりましたね。 ―お褒めの言葉ありがとうございます。
僕はどうせ栄養の話を聞くのなら、プロから学んだほうが選手達に良い刺激が伝わると思って、こばたさんにお願いをしました。『青は藍より出でて藍より青し』という言葉のように、選手達に上手く興味・関心を持たせると、 僕が指示したもの以上の事をやりたいと、選手自ら道を進んで行くようになるんです。 その方が選手達の能力を100%出す事に繋がっていくと経験してきたから、時には専門家の手も借りて選手の興味を惹くようにしています。 今回ある選手が、こばたさんに教わった知識を奥さんに伝えながら食生活を変えていきました。普段の生活の中で少しでも良い方へ進むように、日々変えていかなければいけないと思ったみたいなんですよ。このように自分を変えられる選手は強くなりますね! そういう意味でも、僕自身ができない部分をこばたさんに協力してもらえてよかったです。選手達が素直にやり始めたのが良かったですね、府中アスレの選手はみな素直だと思います。 ―そうですね、私も多くのチームのサポートを経験してきて、強くなるチームの特徴の一つに「素直さ」があると感じています。 “素直”というのは、僕が選手やスタッフを選ぶ一つの基準ですね。わがままな選手もいますが、それはそれで素直に勝ちたいと思っているからなんです。また、そんな選手を支える選手がいて、溝を埋めていってくれてます。なぜか、僕の周りはみんな素直になっちゃうんですよ。素直に行動しても怒られない環境にいると逆に素直になっちゃうんですね(笑)。自分の気持ちややりたい事を言える選手、尖った所や、個々のオリジナリティが光ってる選手は素直なんだと思います。 ―プロフェショナルなコーチとして仕事を極める上で大切にしている事はございますか?
僕はいい加減で優柔不断なんですが(笑)、その中村恭平が仕事を極める上で大切にしているのは、何でも知ろうとする事ですね。知るためには何でも試し・よく考えながらPDCAを行います。(※Plan(計画)→ Do(実行)→ Check(評価)→ Act(改善)の 4 段階を繰り返すことによって、 業務を継続的に改善する事) でも、僕にはCのCheakがないのかもしれない、その分無駄が省けているとしたら、他の人よりも早くPDCAサイクルを踏んでるのかもしれません。 ―Doのあいだに Checkもしているんじゃないですか?
そうかもしれないですね。でもその分たくさん失敗していますよ(笑)。
―失敗があるかもしれませんが、見極めが早いからPDAサイクルなんですよね。見極めのコツはありますか?
決して勤勉ではないと思うんですよ。ほぼ完璧に作ったPDCAを現場で行おうとしても、それが通用しない事もあります。なので、選手の顔を見て行動するように気をつけています。先ほど話した三角・丸・四角の話でお伝えしたように、個々の個性を見極める事が得意なのかもしれません。得意とまでいかなくても、選手の個性を見極めて仕事をするように努めてはいますね。―その個性を見極める力は5人兄弟の中で育ち、幼少の頃から小さな“社会”を知っていたからではないでしょうか? そうですね。特に兄弟では真ん中だったので調整役でした。遊ぶ時も一番下の弟も一番上の兄もみんなが楽しめる状況にしなくてはいけないと思っていました。ハメを外して両親に叱られる時も、ハメを外すほどの楽しいストーリーは僕が考えてることが多い。いつだったか、親父とお袋が卓球に行っている2時間の間に起こった事件なんですが、一番下の弟が悪い事をして兄の物をなくしたか、壊したんです。兄に「責任とれ」と言われても弟は「責任とれない!」と泣いていました。 「僕が悪いことをしたと思うけれど、でも何すればいいの?」と聞いてくるので、僕は「謝んなきゃな、責任とるといえば丸坊主だろう」と弟に伝えました(笑)。 弟も丸坊主になる気になり、今度は兄に「弟が丸坊主になるって言っているんだ、兄さんの物をやられたんだから兄さんが丸坊主にしてやらないと!」とけしかけました。 帰ってきたら、いきなり丸坊主になっている弟を見て、父がカンカンになって怒りました、兄を(笑)。 僕は別にそんなに怒るとは思っていなかったんです。みんなが楽しいことを考えてたらこうなって…僕はバリカンには一切触っていないので怒られませんでした。 でもバリカンストーリー作りは間違いなく僕でしたね(笑)。。 ―小さい頃からストーリーを描くのが上手だったんですね(笑)。
間違いなく調整役。それぞれがどうしたら楽しいのか嫌なのかを考えています。「練習中でもピッチの中でも自分のやりたい事は遠慮なくやっていいよ、最後は俺が責任をとるから」と選手に伝えています。今度はかばってくれる兄はいませんからね(笑)―中村監督は、アスレの選手と一緒に走ったりしていらっしゃるんですか?
率先して自分の背中を見せるようにと、シーズン初めはフィジカルトレーニングも一緒にやっていたんですよ。僕より遅れた選手はまたさらに練習をさせました。でもシーズンが進むにつれて、だんだん選手達に追いつけなくなってきました(笑)。今はコーチの横で少し選手に混じってランニングをしながら、選手の様子や表情を見たりしていますね。 ―プライベートで運動はしてらっしゃいますか?
プライベートでは、仲間や前の会社の友人と月に3回、4回フットサルをやっていますね。
―やってらっしゃるんですね!スバラシイ!あとご自身のお食事はいかがですか?
野菜中心の食事を心がけていた時、体がスリムになった時期がありました。その経験から、日頃から食べ物には気をつけています。
―運動と食事、自分自身のコンディションを調整してフィールドに立つようにしていらっしゃるんですね。 食事と運動とあとはお風呂ですね! 別府温泉の素の液体があるんですが、これがすごく効くんですよ。 よく眠れるし、今度ぜひ試しに使ってみてください!とてもお勧めですよ。 ―はい、機会がありましたらぜひ使ってみます。
日本代表チームに携わっていたい―最後にに中村監督の今後の夢や目標を教えて下さい。
日本のフットサルを「フットサル」という名前がつく前から、普及させたいと思ってきてサッカー協会での活動や、府中アスレティックFC創設、監督業などを続けてきました。
―ステキな夢ですね。夢が叶うよう、影ながら応援します。本日はありがとうございました。
|